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第37回 日本語の中の中国語その17――ほぞをかむ
- 2018/6/20
- 現代に生きる中国古典, 西川芳樹
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「臍を噬む」は「後悔する。取り返しのつかないことを悔やむ」(『広辞苑』第七版)という意味で、後になってからあの時やっていればと悔いることを表します。もっとも最近では、後になってふり返るのではなく、ただ、ひどく悔しい思いをした時にも使う人もいるようです。
この言葉は『春秋左氏伝』荘公六年の記述に由来しています。かつて、楚の文王は申の征伐にむかう道中で、鄧の国に立ち寄りました。文王の母は鄧侯と兄弟だったので、鄧侯は甥が来たと文王を引き止めてもてなしました。すると鄧侯に仕える三人の者が、この機会に文王を暗殺するよう鄧侯に迫ります。鄧侯がこれを拒むと、三人は鄧侯を説いて次の様に言いました。
しかし鄧侯は、甥を手にかければ、人々からさげすまれるだろうと言って聞き入れません。三人はさらに説得を試みますが、鄧侯はついにこの意見を聞き入れることはありませんでした。申の征伐を終えて帰還した年に、文王は鄧を攻撃し、荘公十六年には再び攻撃を加えて鄧を滅ぼしました。三人の言葉通りになったのです。
この文に出てきた「噬齐」とはどういう意味でしょうか。晋の武将として活躍した杜預(「どよ」と読みます)は、呉を滅ぼして三国時代に終止符を打ったことで知られています。一方で、みずからを「左伝癖」と言うほど『春秋左氏伝』を好み、注釈書『春秋経伝集解』を編みました。杜預は「噬齐」について「若齧腹齐,喻不可及(自分でお腹のへそを噛もうとしても口がとどかないように、及ばないたとえである)」と注を付けています。なお、「齐」は「臍」と音通で、同じ意味です。この注から、鄧侯に仕える三人が言った「噬齐」とは、後になってからでは及ばない、つまり、「後々ご主君は機を失したことを悔やむでしょうが、いくら後悔しても及びませんぞ」と諫言したのでしょう。
それにしても、臍に口がとどかないという物理的に及ばないことと、後悔しても及ばないことを結びつけるとは、昔の人のダジャレでしょうか。
ところで、罵り言葉に「へそ噛んで死ね」があります。この言葉は「眼噛んで死ね(関西では「眼え」と発音します)」や「ケツ噛んで死ね」、「豆腐の角に頭ぶつけて死ね」、「うどんで首吊って死ね」などの類語があることから(どれもすごい言葉ですね)、「へそ噛んで」はおそらく「実現不可能なことをしてから」ということで、「後悔してから」という意味はなく、「臍を噛む」とも関係はないでしょう。ただ、へそは噛もうとしてもとどかないという発想は日中両国で同じで、興味深いですね。
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