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第9回 日本語の中の中国語その4―泥酔―|現代に生きる中国古典
- 2015/6/11
- 現代に生きる中国古典, 西川芳樹
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先日、授業を何度も休んでいた学生が、久々に授業に出てきた。筆者が欠席の理由をたずねたところ、学生から「バイトで泥のように働いていました」との返事が返ってきました。耳慣れない言葉に、誤用ではないかと指摘すると、学生はこういう言い方をするといいます。そこで、他の学生にたずねたところ、四人の学生が聞いたことがあるといいました。気になったので、帰宅後に調べたところ、元々は某企業の取締役が誤用して使った言葉だったが、その後、ネットを通じて広まりブログで用いるようになったとのことでした。
「泥のように…」で筆者が思いつく言葉は、「泥のように眠る」と「泥酔」です。この内、「泥酔」は中国の古典の中にしばしば見えます。元稹、李山甫の詩に「泥酔」という言葉そのものが使われていますし、杜甫、李白たちの詩も、酔ったさまを泥に喩えています。このことから唐代には、広く使われていた表現であったと考えられます。ここでは、一例として李白の古詩「襄陽歌」を挙げます。
詩は、ここから李白の酒仙ぶりが発揮されるのですが、非常に長い詩なので、すべてを読んでいると字数を超過し、このコラムに与えられた課題からも逸脱してしまいます。ここでは、本題の「泥酔」について上に示した六句から見てゆきます。詩の全文をご覧になりたい方は、お手数ですが岩波文庫『李白詩選』をご覧ください。
詩は、李白が酩酊しながら行く姿を詠んでいます。二句目の「逆さまに接籬をつけて」は、『世説新語』に由来する言葉で、山公(山簡、晋の人)が、酔いつぶれて馬に乗り、頭巾を逆さまにかぶったことにちなみます。四句目の「白銅鞮」は、南北朝時代の梁朝の歌謡の名前です。六句目の「山公」は、山簡のように酔いつぶれた李白自身を指します。そして、その酔ったさまが「泥のよう」と子どもがはやしています。
さて、この「泥」ですが、水と土の混合物ではありません。これについては、『異物志』という書物に「南海有蟲、無骨、名曰泥、在水則活、失水則酔、如一堆泥(南海に虫がいて、骨がなく、名を「泥」という。水の中で生き、水がなくなれば酔い、一山の泥のようである)」とあります。「泥」という虫のようにぐにゃりとしている様が、正体を失うほど、ひどく酒に酔ったさまを表すようになったのです。
ところで、「泥のように働く」は、働き過ぎて足腰立たないさまが「泥」なのでしょうか。誤用から始まった言葉かも知れませんが、様子がありありと想像できて説得力を感じます。
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