- Home
- 第2回 内助|現代に生きる中国古典
第2回 内助|現代に生きる中国古典
- 2014/11/18
- 現代に生きる中国古典, 西川芳樹
- コメントを書く
ヤンキースの田中将大投手が、故障からの復帰戦を勝利で飾ったとの報道が伝えられた。野球に限らず、サッカー、テニスなど、日本人選手の海外での活躍が連日のように報道される。そして、メディアは同時に選手夫人の「内助の功」についてもしばしば伝えている。
「内助の功」について手元にある国語辞典をいくつか引くと、各辞書ともに「内助」の項目に見える。『岩波国語辞典』には、「内部からの援助。特に、妻が家庭内に居て夫の働きを助けること。「-の功」」とある。他の辞書でも、表立たない援助を指し、特に妻の夫に対する援助とする点が共通する。
「内助」という言葉は、魏の文帝とその妻である郭皇后のエピソードに由来する。文帝は、漢王朝の皇帝に禅譲を迫って帝位に即き、魏王朝を建国した人物であり、また、父の曹操、弟の曹植と共に建安文学を代表する文学者でもある。
『三国志』「魏書后妃伝」によると、文帝は即位した際に甄氏を皇后に立てたが、その嫉妬深さを嫌って自害させた。そして、郭氏を新皇后にしようとした。すると、家臣の一人が文帝に進言した。「古の天子の治世には、外(大臣)の補佐と、「内の助け」(後宮の助け)がありました。内の問題は、天下の安定にとって重用です。それゆえ、優れた帝王は、格式ある家の娘を皇后にして、宮廷を取り仕切らせました。愛情に流されて、身分の卑しい者を皇后に立てれば、上下の秩序が乱れ、後宮が混乱するのではないかと懸念されます」。文帝はこの進言を退けて、郭氏を皇后に立てた。
大臣が文帝へ進言した「内の助け」が内助の語源とされることは、もはや言うまでもないだろう。郭皇后の生家は、先祖代々、県の役人をしており、高い身分とは決して言えなかった。だが、郭氏は、文帝が即位する以前から、持ち前の知略で夫を支えており、文帝が曹操の後継者として選ばれた背景にも郭氏の計略があったと記されている。妻の支えがあり、曹丕は晴れて太子に選ばれて曹操の後継者となれたのであり、まさに内なる助けであったと言えよう。曹操没後、曹丕は曹操の勢力を継承し、漢の皇帝に禅譲を迫って魏の初代皇帝となる。曹丕が皇帝になれたのは、勿論、自身の資質と曹操の威光があったからである。だが、郭氏がいなければ、曹丕は皇帝になれなかったかもしれない。
郭氏はその才能ゆえに文帝の寵愛を受け、家柄のハンディを超えて皇后にまで登り詰めたのであった。文帝の母である卞皇后も、もともとは歌妓であった。曹操が戦に敗れ、戦死したとの噂が流れると、家臣たちは曹家を見限り故郷へ帰ろうとした。卞氏はこれを引き止めた。曹操は後に正妻を廃して、卞氏を立てた。文帝が出身にとらわれず才知により妻を選んだのは、親譲りなのかもしれない。
ところで、「内助」という言葉は、中国でも「妻の夫への助け」という意味で使われていた。だが、「内助」は次第に「妻」のことを指すようになる。例えば、『宋史』に、賢妻を「賢内助」と記す用例が見える。時代が進むにつれ、この「妻」としての意味が主流になり、本義であったはずの「妻の陰ながらの助け」という意味は用例が減ってゆく。『現代漢語詞典』の「内助」の項には、「指妻子」とのみ記されている。つまり、日本と中国では別の意味で使われているのであり、使う際には注意が必要となるだろう。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。