中国人である私から見た日本―序―陳暁傑

 思えば、日本から中国に帰国してすでに一ヶ月あまり過ぎましたが、色々と慣れないことはやっぱり慣れないですね。こういう言い方はちょっとおかしいかもしれません。というのも、普段、私たちは数十年慣れ親しんだ世界から異国に移り生活する時(旅行のような一時的行動ではなくて、数ヶ月から年単位で暮らすことは「生活」と言えます)こそ、様々な面で不慣れなことに頻繁に直面するのではないでしょうか。いわゆる「カルチャー・ショック」です。しかし、少なくとも私にとって中国から日本に来た時の違和感と、中国帰国後の一ヶ月あまりに感じた「あれ?」という慣れない感覚とは比べられません。その一見非合理的な感覚のなかに、私自身の人生経験とも関わりますが、それ以外の、つまりある程度説明できる、他者を納得させる理由があるかもしれません。この連載が終わるまでに「なるほど!」とご理解頂ければ幸いと思います。

 さて、帰国して間もなく本サイトの編集者から「中国人から見た日本」というタイトルで原稿依頼のメールが届きました。丁度私自身も、三年半の留学生活のおかげで、日本に関する色々な考えをまとめようと思っておりましたが、なかなかやる気が出ず、悩んでいたところでした。そのため、さほど躊躇もなく、この依頼を受けることにしました。とはいえ、本サイトが想定している読者は主に日本人の中国語学習者であり、さらに私の専門はどちらと言えば哲学であり、相手に分かりやすく物事を伝えることも下手なので、私が考えるものの中には「普通の日本人はこんなことを考えたこともない」「普通の人・・・・ならこんなことをまったく考えていない」という可能性もあります。それは別に「陳さんは頭がいい/変わっているから、こんなことさえ考えた」という意味ではなく、長時間スコラ的世界に(特に大学という近代スコラの容器)閉じ込められた結果、常に一般人の世界とは違う土俵に上っていたということです 1
 本題に戻りましょう。「中国人から見た日本」は、あまりにも陳腐なテーマですが、まずテーマの前提に関して少し考えましょう。このテーマはある意味では「日本人論」、「中国人論」と類似します。つまり、「日本人論」や「中国人論」は、ある共同体に生きている人々の同一性(それは経験的意味にせよ、超越的意味にせよ)を自明な前提としています。というのも、同一性がなければ完全に無数のバラバラな個になってしまうため、話が進まないからです。しかし、よく考えれば、「日本人論」のような歴史を無視する、つまり超歴史あるいは無歴史的議論に陥る傾向と比べれば、少なくとも「A国人から見たB国」というテーマの設定には、対象であるB国の歴史性が想定されやすいかもしれません。私個人の基本的立場は温和的ニヒリストなので、こういう超越的同一性(経験的同一性を否定する必要はありませんが)を一切認めません。よって、これから話すことは、ごく限られた範囲で、「この私=ある中国人留学生」から見た「日本」だけです。それに、「A国の人から見たB国」というテーマは必ず「他者=A国の人」の視点を導入するので、本篇に入る前に、私が理解した「普通の中国人から見た日本」、そして「普通の日本人から見た中国」を話しましょう。それは私自身の立場とは随分違うので、座標軸における位置づけの作業としては便利です。

 そもそも、(普通の)中国人と(普通の)日本人は、この数十年の間に、互いに相手を見ていますか。結論を先に出すと、恐らく互いに相手を見ていません。ここで言う「見る」とは、当然視覚的イメージも含めていますが、単なる物理的「AはBを見ている」という意味以上の、「ちゃんと相手の存在を意識している/相手は何を考えているかに対して興味がある/……」ということです 2。この三年半の留学生活で、私はずっと独身ですが、ある夏休みの時、上海で兄さんと出会いました。兄さんは「陳君はどんな彼女がほしいのか。まあ確かに日本人の彼女ができたらいいですね」と言いました。私は少し驚きました。兄さんが想定している日本の女性は、恐らく旦那さんに百パーセント従順するいわゆる「大和撫子」でしょう。しかし、兄さんはこれ以前に奥さんと一緒に日本観光していたので、たとえ言葉が通じなくても、彼の目に映る日本の女性は、はたして何処かで「大和撫子」というイメージと合致するのか、私にはさっぱり分かりません。それは日本にとっても同じでしょう。というのも、毎年中国を観光する日本人の数がどれほど増やしても、中国人対するイメージは、百年前とどれほど変わったのでしょうか 3。これこそ「人は見たいことだけを見るだけ」です。この現象にぴったり合う傍証は、「外国人」という言葉で言及される場合に浮かび上がるイメージです。それは、中国人にとっても、日本人にとっても、外国人はまず何よりも背が高い・金髪・青い瞳、要するに欧米人に他ならないのです。私はいつも、暇つぶしに日本のテレビ番組を見る時、ゲストとしての「外国人」=欧米人(たまたまほかの国の人も出てきますが、中国人や韓国人がありません)の登場という「自明性」を確認しました。中国の番組は全く見ていないですが、間接的例証として、一つの言葉を挙げれば十分だと思います。つまり、「老外」 4という言葉です。それは日本人のための辞書にも書かれるように「外国人」の意味ですが、主に欧米系の外国人を指します。日本人も「老外」に含まれるはずですが、日本人は日本人と言われ、あまり「老外」とは言われません。中国では年配者の愛称として「老」を用いる習慣があり(「周さん」なら「老周」というように)、軽蔑というより、むしろ相手の存在をちゃんと認める、さらにある程度憧れも含まれる意味です。「老美」という俗語とは同じ論理です。日本人を指す場合、普段「日本人」とも呼ばれますが、「小日本」という言い方はもっと中国人の感覚を伝えると思います。「小日本」の「小」は確かに文字通り「小さい」という意味ですが、普通の中国人はこの言葉を使う時の軽蔑感を翻訳するためには、決して単純に「大きい小さい」という感覚ではありません。そのあまりにも露骨な軽蔑感は、同じく露骨な「老(外・美)」の表現と比較すればすぐ分かります。すなわち、中国人は欧米、もっと正確に言えば今はアメリカしか「相手」として見ていないので、日本人が相手になる価値なんて何も認めません。そのため「見ていない」のです。しかし、中国人の外国観を説明することは非常にややこしいのでここでは略します。これと比べれば、日本人の外国観はある意味では単純明快だと思います。簡単に言えば、明治維新以来、日本は西洋=欧米のことをきちんと学び、停滞的前近代のアジア世界で一番早く近代化を実現した国家、と言われました。近代化の「優等生」である日本は、時に西洋より日本こそ優越性(戦前の「近代の超克」とか、1980年代のポストモダンの超克とか)を持つと主張しながら、「西洋」こそ自分が唯一参考・反省・超克すべき対象、すなわち「相手」であることは、この百年間、全く変わりません。だからたとえ中国のGDPが日本を上回り世界二位になっても、「中国の経済的奇跡を学ぼう!」と考える日本人はあまりいない(むしろ嫌悪感・不安感が増えるでしょう)のも不思議なことではないですね。

 ところが、こう反論されたらどうでしょう。「あなたの言うことは確かにそうかもしれないけど、日本に留学する中国人/中国に留学する日本人はあなたと同じように、長い間日本/中国に生活しているから、普通の中国人/日本人のステレオ的捉え方とは違うでしょう」、と。その通りです。「クール・ジャパン」が提唱される随分前、私の少年時代、つまり1990年代から、中国人はすでに日本の文化(アニメ、テレビドラマ、映画、文学など。ちなみに、その中には違法チャンネルないしグレー・ゾンが多いです)と少しずつ接触し始めました。そのため「日本のアニメ/文学/歴史が好き!」を動機として日本へ留学する中国人は結構多いです。しかし、彼らが見ている日本は、ちょっと乱暴的かつ独断的言い方かもしれませんが、やっぱり「見たい日本=萌える美少女を生産する日本/美しい文化・歴史を持つ日本/オシャレ度が高い日本/……を見ている」だけです。元オタクとしての私と彼らは違います。だからこの連載のテーマは「中国人である私から見た日本」です。「中国人である」とは、「この私」を説明するため、数えきれないほどの属性のなかの重要な一つだけです。

 ここまで書くと、「そこまで『自分は普通じゃない』と絶えず主張するあなたは本当にキモイです」と思う方は少なくないでしょう。私はこれについて自己弁明するつもりはありませんが、誤解を免れるために一つだけ言います。二村ヒトシ(この人は元AV監督です)は次のように言います。

 あなたが誰であろうと、あなたは断じて【なにか特別な人間】では、ありません。もしも「なんらかの才能」があるのだとしても(中略)それでもあなたは【特別な人】じゃない。
(中略)
 それを決めることができるのは、その人がそのときそのときで面とむかってる「相手」なんです。(『すべてはモテるためである』、文庫ぎんが堂、2012年、68頁)

 まさにその通りです。「特別かどうか」は所詮「ある側面において特別かどうか」の話しなので、「人」という「種」に属する限り、誰も完全に「特別な人」と主張できません。だから、ここでキモイと思われるかもしれない私は、所詮「ある側面」だけ「普通じゃない」です。ただ、スコラ的性向がすでに自分の一部になった私の場合、その「ある側面」の範囲がかなり広いだけです。それは良いことでも悪いことでもありませんし、別に自慢する気持ちもありません。

 「はじめに」の挨拶はこれぐらいで終わります。さて、分けわからなくてシツコく自己分析しましたけど、この文章を最後まで読んで頂いたあなた=中国語を学ぼうとする日本人は、自分のことをどう思いますか。普通なのか。特別なのか。それとも、どちらでも言えないでしょうか。

Notes:

  1. 簡単な例を挙げましょう。いま私はキーボードを叩いて文字を入力していますが、「これは私の手でキーボードを叩いている」という事実を誰も疑いません。もしこんなことまで疑うなら「私は『この手は私の手』と知っている」と人は当然そう言いますが、「いや、あなたはその根拠を示すことができるのか」、となります(これに関しては『ヴィトゲンシュタイン全集巻9 確実性の問題・断片』、大修館書店、1975年、第306、307断章について参考になる、77頁)。こういう質問を聞いたあなたは、困惑した表情が隠さないでしょう。これはブルデューが激しく批判した「スコラ的性向」(『パスカル的省察』、藤原書店、2009年)です。にもかかわらず、以上の説明を聞くと、恐らくますます分からない方が多いでしょう。あのスコラ的世界に一度深く浸透しないと、この世界の問題を分かるはずがないからです。とはいえ、以上のことは結局また私ひとりのつぶやき(モノローグ)になりますので、ひとまず終わります。
  2. 視覚中心主義は決してデリダの言うような西洋文明の独自的症候ではありません。
  3. 政治としては当然変わるでしょう。詳しく述べることは避けますが、恐らく冷戦時代からイメージは殆ど変わっていないと思います。私が言いたいのは、中国ではなく、中国人に対するイメージです。したがって、テーマとして正確に言えば『中国人である私から見た日本人』となります。しかし、そうすれば語感としては逆にややこしくなるため『中国人である私から見た日本』とします。
  4. ネットで検索索すると面白い記事があります。http://www.mentor-diamond.jp/aiesec/?p=1463
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陳暁傑武漢大学国学院講師

投稿者プロフィール

1981年、中国江蘇省常熟市に生まれる。復旦大学中国哲学専攻の修士課程を経て、関西大学東アジア文化交渉学博士学位を取得した。現職は関西大学東アジア文化研究センター非常勤研究員。専門は中国哲学、江戸儒学思想。また、西洋哲学、社会学、宗教学やフェミニズム・ジェンダー論も研究の射程である。趣味は異なる人と話し合う。最近の論文は「荻生徂徠における『天』の問題」(『東西学術研究所紀要』第47号)

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