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第9回 『異文化間語用論 -Intercultural Pragmatics-』――日本人家族のとある日常in上海
- 2019/6/18
- 日本人家族のとある日常in上海
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今日のテーマは『異文化間語用論 -Intercultural Pragmatics-』
春学期もあと2週間ほどになりました。
プレゼンやらレポートやら筆記試験やら、みんな準備に大忙しです。
中国の大学の入試統一試験もちょうど同じ時期で、この時期は学生はどこも落ち着かない感じですね。
こちらの統一試験は試験日前日にわざわざ試験会場の近くのホテルに泊まったりするそうです。統一試験の時は警察が街にたくさん出るそうで、市民全体が受験生を見守るような雰囲気になると聞きました。
「なんだかとっても大ごとですね!」と話してくれた大学の先生に言うと、その先生が「子供の大学受験は家族みんなにとって非常に大きなことで、子供の成功は親戚一同に大きな影響を与えます」と言っていました。
なんとなくわからないような気がしないでもなく、そう考えると日本はだいぶ欧米の影響を受けて個人主義化してきているなぁとしみじみ思いました。
中国では親が我が子に進んで欲しいと願う将来と自分が進みたい道との間で悩む学生が多いと聞きます。
先日上海で、男子高校生と母親が学校で先生と面談した帰り道に車の中で口論となったあげく、浦東から浦西に掛かる橋の手前あたりで男の子が車を飛び出し、橋から身を投げて亡くなったという事件がありました。
この他にも、少し前の話ですが、大学生が自分の進みたい学部を親に否定されて、大学のキャンパスから飛び降りるという事件もありました。
親も我が子を思うが故のアドバイスであり、そんな親の気持ちを無視できないからこそ子供も一度は親の希望通りに進むのだけれど、やっぱり違う…、と悩むパターンが本当に多いそうです。
中国では(中国だけではありませんが、中国は特に)仕事によってお給料に雲泥の差があり、そういった事情をよくよく理解している親だからこそ、我が子には少しでも幸せな生活を送れるような仕事について欲しいと強く思うんですよね。
でもそれがうまく子供に伝わらないというか、また子供の気持ちが完全に否定されてしまったりすることで、こういった衝突が後を絶ちません。
親子間が近い文化ならではの問題かもしれませんね。
Intercultural Pragmatics
先日、今学期自分が取っている授業内で語用論についてのプレゼンをしました。
Cultural pragmatics、特にIntercultural pragmaticsについてまとめたのですが、この中で発表したことを今日はちょっとだけ書きたいと思います。
先日Googleが新しい翻訳アプリ『Translatotron』を開発しているという記事を読みました。
なにせこのボイストランズレーターは、話者のトーンやcadence(ピッチ、リズム)まで考慮して翻訳するというのです。
現在の翻訳アプリはマシンボイスといいますか、翻訳された内容が機械的な声で読み上げられますよね。
でもこの新しいGoogleの翻訳アプリは、例えば暗い感じの声でマイクに向かって声を吹き込むと、アプリはそんな音調も読み取って、翻訳された内容がなんとなく暗い感じの音調でスピーカーから流れます。
おもしろい時代です、本当に。
でもきっとAI(人工知能)の発達はこれにとどまらないでしょうね。
それでも機械ではどうしても翻訳できない言語分野も必ずあると思います。
そしてPragmatics/語用論もその中の一つだと自分は思っています。
なぜならPragmaticsは言葉の中でも音にならない部分だからです。
Implicature(含意)、要するに発せられた言葉ではなく、その言葉が発せられた場におけるその言葉が意味することを理解しなくてはならないわけです。
“A related concern in much of pragmatics has to do with implicature and all forms of ‘the unsaid in the said’. This is of course closely related to a concern with context, since contextual cues are what provide access to the unsaid (Wood, 2015).”
言語化されたことのなかの言語化されていない部分という表現が本当にしっくりきますね。
そしてそれを理解するには、発話者の言葉の使い方やクセ、傾向を知る必要があったり、発話者の意図を理解することが求められます。
“Any pre-existing knowledge about those involved, the inferred intent of the speaker, and other factors(Liu, 2009 ).”
なのでPragmatics competence(語用能力)というと、それはInterpersonal relationship skills、Communicative competence、Social skillsといった対人関係構築能力を指すことになります。
日本語では『空気を読む』という言葉がありますね。
英語では『Read between the lines』というフレーズがあります。
微妙に意味は違うのですが、両方とも「書かれていないことを読む」というところでは同じような意味になります。
スピーチアクトの中の”Request” と “Refusal”
私たちは日頃独り言も含め、いろいろなことを発話しているわけですが、その発話内容によってそれらをいくつかの種類に分類することができます。
例えば挨拶、要求、褒め言葉、文句、断り、などなど。
その中でも自分が注目したのは『要求』と『断り』。
なぜかというと、この断るという行為がものすごく難しいと自分は思ったのです。
断ること自体が難しいのではなく、この断り方が文化によって差があると感じ、そのせいで知らぬ間に誤解を生んだり、相手を嫌な気持ちにさせたりしているということがあることについてとても気になったのです。
よく日本語で曖昧さが指摘される言葉の『大丈夫』『いいです』などもその中に一つです。
日本語が話せる中国人の方とお話ししているときに、丁寧に断ろうとして「大丈夫です」というと、「それはいらないということ?それともいりますか?」とよく聞き返されます。
「いいです」も同じですね。
なのでこの『要求』と『断り』という言語行為がどのように異文化の話者同士で行われ、誤解が生まれたりしているかについて詳しく調べてみようと思いました。
ポライトネス
上でも述べたように、丁寧に何か頼もうと思ったり断ろうとするときに、遠回しな言い方(Indirectness)というのがキーになってきます。
一点押さえておかなくてはいけないことは、”Polite” (丁寧)と”Linguistic Politeness” (言語における丁寧さ)は別物だということ。
“Polite”は、どちらかというとマナーや礼儀態度の観点から、『正しい行い』といったニュアンスがあります。
一方で、”Linguistic Politeness” (言語における丁寧さ)は『その場における適切な表現』になります。
そしてBrownとLevinsonという研究者は、話者が話し相手に対して要求などがなされた時に、その言い方が遠回しであればあるほど、聞き手が話者の意図に気づかなかったという言い逃れするチャンスを与えることになり、よって断るということも含め聞き手の行動の選択枠を広げる、と言っています。
“[W]hen someone is indirect, for example when requesting something, the person gives the interlocutor the option of not recognizing or acknowledging the request, and therefore indirect forms allow the hearer some freedom of action” (as cited in Mills, 2014).
例えば、断ることを前提に考えて、「本貸して」と直接的に聞かれると、聞かれた方は「ごめんなさい、今ちょっと使っています」とか「この本は大切なので貸せません」と言わなくてはなりません。
この『断る』という行為は、話者と聞き手双方の面子(Face)を脅かす行為とされます。
相手の要求を断ることは、相手のNegative face(自分の意見を行使したいと願う一面)を脅かし、また自分のpositive face(周囲によく思われたいと願う一面)が脅かされます。
しかしここでもし、「その本おもしろい?」と言われたとしたら、それがもしかしたら相手がこの本を貸して欲しいと遠回しに言っているかもしれないと思っても、気づかないふりをすることができ、また直接断ることを避け「ん〜、どうだろ。そんなに面白くないかも。自分も借りたばっかりでまだ読んでないんだぁ。これから読むから読み終わったら教えるね」となんとなく相手に断ることをせずに『貸せない』ということを伝えることができます。
これによって、互いの面子を保ったまま『要求』とそれに対する『断り』のやり取りを完了させることができます。
社会の中で人と人が円滑に暮らしていくための知恵といいますか、要するに相手に配慮した表現がLinguistic Politenessということになります。
しかし遠回しな表現は誤解を生む原因にもなります。
Cultural Differences in Language Use
ここで文化の違いという大きな壁が立ちはだかります。
言葉も文化の一部です。
言葉にはその言葉が話されている地域や国の歴史や文化がぎゅっと埋め込まれています。
Ting-Toomeyという社会言語学者は、文化によって言葉の使い方には違いがあり、その違いのクライテリアの例として、
Low-context/High-context communication (話の場にいる話者同士間ですでに共有されている情報量)
Direct/Indirect verbal interaction styles (表現が直接的か遠回しか)
Person-oriented/Status-oriented verbal styles (個人思考かステータス思考か)
などが挙げられています。
この言語使用における文化の違いによって、意図しない誤解が生まれ、話者本人の性格とは関係がないのに、いつの間にか『キツイ人』『どっちつかずな曖昧な人』と思われてしまう可能性があるんです。
中国語話者と日本語話者の会話は誤解が生まれる可能性が高い?
日本語は遠回しな言語ですね。
京都にまつわる有名な話で、長居しているお客さんに「ぶぶ漬け食べますか?」「おふろ入っていかれますか?」と聞くことでお客さんに「いや、そろそろお暇いたします」と言ってもらうように促すと。
これはちょっと大げさな話かもしれませんが、やはり日本には『ウチとソト』といった概念があったり、謙遜が美徳とされていたり、いろいろな観点から見てもやはり日本語は遠回しな言語だと思います。
一方中国語はどうでしょうか。
おそらくダイレクトな言語ではないかと思います。
以前、大学の日本語科の中国人の先生がこんなことをおっしゃっていました。
「中国は様々な民族がいて、人種も様々、方言も本当に様々。そんな中国で遠回しに話をしていると意思疎通ができなくて誤解だらけになってしまうでしょうね。だからみんなハッキリ伝えようとするんですね、きっと」と。
非常に納得しました。
直接的な表現をする中国語と遠回しな日本語。
日本語話者がキツくならないように遠回しで言おうとする中、中国語話者がズバッとモノを申すと「え。。。そんなハッキリいっちゃいますか?」と思ってしまう場面に出くわすことも多いと思います。
逆に遠回しに伝えようとする日本語話者に対して中国語話者は「だから何が言いたいのかわからないし、まるで責任から逃げてるみたい」と感じてしまうのではないかと思います。
中国語と日本語は両方ともHigh context communicationの言語です。
要するに、『言わなくてもわかるでしょ』が多い言語ということです。
だから尚更知らない間に誤解が生まれて、そのままになってしまう可能性が高いんですね。
最後に
将来的に夫の職場の方にご協力いただいて、日本人と中国人の母語話者同士の発話データを取って日本語話者と中国語話者におけるIntercultural pragmaticsについて調べてみようと思っています。
もしおもしろい発見があればぜひまたみなさんにご報告したいと思います。
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