第21回 日本語の中の中国語その9――虎は死して皮を残し、人は死して名を残す――|現代に生きる中国古典

 大河ドラマ『真田丸』が人気ですが、その主人公の真田幸村は、大坂夏の陣で不利な豊臣方に味方し、奮戦の末に壮絶な討ち死にをとげたことで知られています。大坂夏の陣では、真田幸村の他にも、後藤又兵衛や毛利勝永など多くの武将が豊臣家と運命を共にし、それぞれがその勇猛さと節義を讃えられています。そして、後の時代になると、彼らの活躍は講談や絵本(草双紙)、小説の題材として選ばれ、たくさんの物語が作られました。

 中国でも、武勇と義を兼ね備えた武将は英雄としてあつかわれ、数多くの通俗的な物語が作られました。その代表はなんといっても『三国志演義』でおなじみの関羽でしょう。ですが、中国は長い歴史をもつ国、忠勇兼備の英雄も関羽一人ではありません。「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」の由来となった王彦章もその一人です。

 王彦章は、五代十国時代に活躍した人物で、『新五代史』などの歴史書に伝があります。五代十国時代は、わずか五十三年の間に後梁、後唐、後晋、後漢、後周という五つの短命王朝が中原地域で興亡を繰り返し、多くの地方政権が現れた戦乱の時代でした。王彦章は、後梁に仕えた武将で、鉄槍を振るって大活躍をし、「王鉄槍」とあだ名されていました。ところが、後梁は、皇帝の失政などにより次第に勢力を失い、後唐に滅ぼされてしまいます。王彦章も抗戦しましたが、衆寡敵せず後唐に捕らえられてしまいました。後唐皇帝の莊宗は、自身も優れた武将だったので、王彦章の武勇を惜しみ、何度も人を遣って説得しました。王彦章は答えます「拙者は、陛下と十数年にわたり戦を繰り広げてまいりました。戦いに敗れて力つきた以上、死なずにおれましょうか。拙者は後梁の恩を受けております。死なねばこの恩に報いることはできません。朝は後梁に仕えておきながら、日暮れには後唐に仕えているようでは、天下に人々にあわせる顔がありません。」莊宗は、さらに説得を試みましたが、王彦章は「自分は生を惜しむものではない」と拒み、殺されました。

 王彦章は、いつも人々に「豹は死して皮を留め、人は死して名を留む(豹死留皮,人死留名)」と言っていました。まさに、死によって忠義の名を後世に残したのです。

 この言葉は、日本にもかなり早く伝わっていたようで、『日本国語大辞典』(小学館)を調べたところ、『古来風体抄』に「とらはしにてかはのこす。人はしにて名をとどむ」とあるそうです。『古来風体抄』は、1197年に初撰本が編まれ、1201年に再撰本が作られていますから、鎌倉時代初頭には、この言葉が日本に入ってきていたことになります。

 ただ、日本では「豹」が「虎」へと変わっています。虎へと変わった理由は、はっきりしません。「虎死留皮」の用例を中国側の文献で探しましたが、明清代の資料にわずかにあるだけです。資料からは、中国語の影響かどうか分かりません。あるいは、『説文解字』に「豹、虎に似る」、『易経』の陸績注に「豹、虎の仲間で小型の者である」とあり、豹が虎に似た動物と理解されていたので、日本ではより有名な虎に変わったのかもしれません。変化の理由は分かりませんが、以降、日本では「虎は死して皮を留め(残し)、人は死して名を留む(残す)」という言い方が定着し、意味も死ぬことで後世に名を残すのではなく、「虎は死んだあともその皮が珍重され、偉業を残した人は死後もその名を語り継がれる」(『明鏡』)という意味で使われています。

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西川芳樹関西大学非常勤講師

投稿者プロフィール

大阪府岸和田市出身。
関西大学文学研究科総合人文学専攻中国文学専修博士課程後期課程所定単位修得退学。
関西大学非常勤講師。
中国古典文学が専門。

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