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第19回 日本語の中の中国語その8――中らずと雖も遠からず――|現代に生きる中国古典
- 2016/4/20
- 現代に生きる中国古典, 西川芳樹
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友人のブログを読んでいて「近からずとも遠からず」という言葉を目にしました。耳慣れない言葉だったので、そんな用法があるのかと思いネットで検索したところ、たしかに沢山の用例が見つかりました。どうやら、物理的な距離がそれほど遠くない、もしくは、状況や意味がぴたりと一致はしないが大きく外れてもいない、という意味で使われているようです。中には、後者の意味は「当たらずとも遠からず」が変化したものであろうと考察するサイトまでありました。確かに、「当たらずとも遠からず」にも同じ働きがあるので、「当たる」が「遠い」の対義語「近い」に置き換わったとも考えられます。多くの用例が確認できたことから、現在少しずつ熟しだしている言葉ともいえるでしょう。
「当たらずとも遠からず」は、本来「中らずと雖も遠からず」といい、儒教経典の一つ『大学』に由来する言葉です。『大学』は、もともと『礼記』の一編でしたが、朱子により儒教入門の書として四書の一つ(他の3つは、『中庸』、『論語』、『孟子』)とされました。『大学』では、個人の心を正しくして身を修め、その後に、家を和合させ、さらに押し広げて国を治め、最後に天下を平安にするというように、個人の修養を拡大させて政治理念へと発展させることを説いています。
さて、「中らずと雖も遠からず」は『大学』第五章に見える言葉です。以下に原文を引きます。
民に対する政治的姿勢を、母が赤子を慈しむのと同じであると説くのは、政治の手段として、個人の修養を次第に拡大させていくことを説く『大学』らしい表現といえるでしょう。
『大学』での「中らずと雖も遠からず」は、真心で政治をすれば、大きな間違いはないという意味でしたが、現在の日本語では「的中はしていないが、それほどまちがっていず、ほぼ正しい推測である。」(『大辞林』)と政治以外の意味でも使われています。
「近からずとも遠からず」とは、いまはまだ誤用かもしれません。しかし、「確信犯」という語彙が「問題を引き起こすと分かっていながら、その行為をする人」という本来からは外れた意味で広く使われたように、言葉には、誤用がいつの間にか一つの用法として定着することもままあります。ひょっとしたら「近からずとも遠からず」もいつか定着する日が来るのかもしれません。
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