- Home
- 第1回 元首たちの古典教養|現代に生きる中国古典
第1回 元首たちの古典教養|現代に生きる中国古典
- 2014/10/17
- 現代に生きる中国古典, 西川芳樹
- コメントを書く
中国では悠久の歴史の中で多くの書物が編まれ、その中から多くの古典が生まれてきた。中国語を学ぶものは、ほとんどの場合、現代中国語(口語)を学び、古典文(文語)は特別な関心を持たない限り、積極的に学ぶことはないように思われる。古典を知らなくとも、実際のコミュニケーションや生活に差し障ることは殆どないだろう。
だが、中国では古典が教養として、あるいは、行動の規範として根付ている。中国でビジネスをする日本人にとって、『韓非子』や『貞観政要』が、中国人的思考を学ぶ必読の書となっていることはその例であろう。会話でも古典はしばしば用いられる。「ビジネス中国語」と銘打った書籍を見ると、古典の一節を引用しつつ中国人と交流する方法を説く記事が見える。だが、ビジネスの交渉や宴会に於けるコミュニケーションは企業の利益と直結するためか、具体的な利用法は公開される機会が少ないといえる。
中国では政治家も古典をしばしば引用する。毛沢東、周恩来、江沢民、胡錦濤、温家宝、そして、現リーダーの習近平など、多くの指導者が演説で古典を引く。古典を現在の鑑とすることは勿論、自らの教養を誇示する意味もあるだろう。彼らの言葉はしばしば文集にまとめられて公開される。そこで、政治指導者が引用した古典から、現代中国語のコミュニケーションに応用できるものを紹介しよう。
2006年10月、温家宝首相は、安倍首相の訪中を受け、日中関係について意見交換した際、安倍首相の対中関係への積極的な態度を賞賛し、「安倍総理のこの度の訪問は、両国関係を改善する希望の窓を開いた。青山遮不住、毕竟东流去」と述べた。「青山遮不住、毕竟东流去」とは、南宋の詩人の辛棄疾が詠んだ「菩薩蛮・書江西造口壁」詞に見える。以下は、その全文である。
「青山遮不住、毕竟东流去」とは、山に喩えられるような障碍があろうと、山を縫って流れる河の水ように遮ることができないという意味で使われている。温家宝首相も、日中友好はいかなる障碍があっても遮ることができないとの意味で用いたと思われる。
この言葉は、政治的場面のみに限らず利用できるであろう。ビジネスシーンに於いて、日中両国は政治的には問題があるが、経済的な繋がりを止めることはできない、と喩えるもよし、恋する男女ではあれば、二人の間にいかなる障碍があろうとも二人の愛を止めることはできない、と言うもよし、応用範囲の広い言葉であろう。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。