私はよく教科書を作る。きちんと数えたことはないが,50冊近くは手がけているのではないかと思う。
ときどき夢想するのだが,決定版と称される教科書があって,それでもう教科書作りはおしまい,となればよいのだが,そういうものでもないらしい。
私は「こんな教科書があってもいいかな」という,ふとした思いつきが出発点になり,その思いがイメージとして膨らんで,はっきりしたコンセプトというか形として想像できるようになると,では作ってみるかと動き出す。
作る上でひとつだけ守っていることは,「これまでにない工夫やアイデアが含まれている」ことで,それがなければそもそもやる気が起こらない。だから,私はあまり出版社に頼まれて作ることはしない。ほとんど自分から「こんなものを作りたいのだけれどもどうだろう?」と打診する。断られても,イメージとしてすでにできているから,どこかでいつかしら実現することが多い。
教科書なんか作るよりも,もっと研究活動をという声もある。しかし,教科書は学生が1年間つき合うものだから,見下すような考えはどうかと思う。教科書の質は直接授業の質に関わる。ただ教えるほうに研究の蓄積や問題意識がないと,学ぶほうもそれは感じ取るもので,教師にとって教える対象である言語と真摯に向き合い探求し続ける姿勢は大事だろう。
いま手がけている教科書に『音読中国語 入門編』(相原茂,蘇紅 朝日出版社)がある。誰もがうすうす感じていることだが,中国語は声を出して読む音読が重要だ。声調や発音が大切だし,それだけではなく音読しながら体全体で暗唱し,そらんじて身につけてゆく,そういう過程がどうしても必要ではないかと思う。ことばを学ぶとは「まねる」ということが欠かせないが,中国語はとくに音読し,暗唱し,型をまねることの重要性が感じられる。うまく説明できないが,音読という行為は理屈を超えたなにかを蔵していることは間違いない。
これまで音読を標榜している教科書がないわけではない。しかし,正直言って初級や入門期での「音読教材」は作るのが難しい。繰り返し読むに値する課文を作るのも骨である。今回それがどれほど成功しているかは教授者の判断に任せるしかないが,編者としてはできうる限り「音読,暗唱」に耐えうるような課文を作ったつもりである。
さらに学生諸君が一つの課文を20回ぐらい音読するような「しくみ」も施してみた。あとは先生方のうまい指導を待つしかない。
そもそも「音読」にふさわしいのは初級後半から中級あたりの教材ではないか。中国では唐詩などを音読し暗唱しているようだが,日本で学生が学ぶ教材としてはもう少し普通の散文が望ましい。ところが,私などが学生時代に習ったのは「老三篇」という革命的な文章だった。言うまでもなく毛沢東の短文《为人民服务》、《愚公移山》、《纪念白求恩》である。
他には毛沢東語録なんかも読んだ。お上が覚えるべしというのは,大体政治色が強くて,あまり心に響くものがない。
しかし,これだけ文章があふれている現代中国である。すぐれた文章がないはずはない。是非,これこそはという名文をあつめ,『音読中国語 標準編』というのを編みたいと思っている。教師の皆さんにアンケートをするなりして推薦してもらい,是非実現したいと思っている。みなさんのご協力を今から乞うておきたい。
最近作った本に『いきなり本格派 中国語入門 君に捧ぐ永遠』(朝日出版社,殷文怡氏と共著)がある。これは田原という作家であり,歌手であり,女優でもある,いわばマルチタレントとの共同制作である。
本文は作家が書いた恋物語である。「いきなり本格派」というのは,初級であれ,作家の感性を生かし,自由な課文を作ってもらえば結果としてある程度本格的なものになるのではというおそれからでもあった。
ただ,それで時間表現やお金の言い方や数字や年月日や量詞などが出てこない教科書になっても困る。といって,これらを必ず取り入れた課文をとお願いするのもためらわれた。
そこで,発音が終わって,すぐに本編にすすまずに,「ブリッジ課」というのをもうけた。ここで,最低限必要なものは学んでしまおうという魂胆である。
かくて,田原さんには,もちろん一年生の語学教科書という縛りはあるわけだが,あまり語法ポイントを気にせずにストーリーを作ってもらえた。
私の教科書には「知っておきたい 語法知識」とか「これは知っ得 日中異文化」といったコラムが課末に配置されていることが多い。これはとくに義務的ではなく,余力のある人がざっと目を通せばよいぐらいに考えて付録のようにつけているのだが,これを授業で消化しなければいけないと誤解している方もおられるようで,「教える分量が多すぎる」とプレッシャーに感じる人もいるようだが,まったくそういうつもりはない。
同じようなコンセプトで作ったものに『きらきらの童年』(殷文怡氏と共著,朝日出版社)がある。ここにもブリッジ課をもうけたが,この本ははじめにイラストありきで,中国の童年を描いたイラストから想起される課文を配してみた。これも類のないテキストに仕上がったと思う。
もう一つ,最近の工夫として「語法ポイント」を学んだら,すぐにその知識を練習するという「即練」を試みている。要するに「語法ポイント」と「練習」を同じページにレイアウトしている。昔は先に「語法ポイント」をやり,そのあとページを改めて練習問題をやっていた。これでもいいのだが,必ずといっていいぐらい,学生は前のページをめくる。そうすると,なんとなく教室がざわざわして,答えさがしのような様相を呈する。これをなくしたかった。
発音編について
内容はいつも変えるが私は「発音編」はほとんど変えない。これは発音の教え方はそう変える必要がないからだ。考えてみれば,発音をめまぐるしく変えるのはどうかと思う。自分なりに一番良いと思う教え方が確立すれば,それを続けてもよいのではないか。
全く変えないかというとそうでもない。例えばこの間,複母音の三つのタイプを私はある時期まで次のように記述していた。
しりすぼみ型>:はじめの音を強く,後が弱く。
発展型<:はじめ弱く,後を強く。
ひしもち型<>:<と>が合体した型。
説明では「はじめの音を強く,あとの音を弱く」としていたが,これを「はじめの音は口の開きが大きく,あとの音は小さく」と改めた。aiという音の強弱は本質的にきまっているのではなくて,たとえばaiが第4声なら頭のaが強く,後ろのiが弱い。逆に第2声の場合は,頭のaよりも後ろのiのほうが強く発音されるだろう。つまり強弱は声調による。ここでの分類「しりすぼみ型」「発展型」などはあくまで口の開きの大小にもとづいている。そう考えて説明を改めた。
また,発音ドリル,練習問題はできるだけ教科書によって変えるようにしている。最近はだんだんおっくうになってきていてあまり手を入れてないが,いま作っている教科書では,たとえば「発音を聞いて声調符号をつけなさい」という問題で「Riben」や「Zhongguo」などと一緒に出していた「Aolinpike」を「Aoyunhui」と改めた。考えてみれば我々は「オリンピック」とよく言うが,中国語では“奥林匹克”ではなく,“奥运会”のほうが自然でよく使う。当たり前のことだが,発音に関わることでも気がつけば直すようにはしている。