“telescope”(望遠鏡)のことを今は中国語でも“望远镜”といいますが、かつては“千里镜”といいました。「ものの『本質』」も、今では“本质”といいますが、禅では「眼目」あるいは「眼睛(がんぜい)」といいます。また、「宇宙」も、禅では「山河大地(せんがだいじ)」といっています。
つまり、「遠くを望む(見る)」というところを、「千里」という具体的な数字で表すのが中国語ということです。まさに、「具象性」を好むという中国人の特徴が、言葉に反映されているのです。インド哲学では「一を知って一切を知る」といいますが、中国では「一を挙げて三を明らかにする」といいます。
そう考えると逆に、中国語は「抽象」が苦手ということかもしれません。16世紀後半から19世紀後半にかけて、西洋の宣教師をその主な担い手とする「西学東漸」の潮流が起こり、西洋の多くの近代科学文明が中国にもたらされました。そのとき、中国人は、「新しい事物」に対する「命名」の問題に直面し、特に「抽象語彙(ごい)」の扱いに苦労したはずです。宣教師たちは、中国人と共同して新しい訳語を作りました。同じように、日本の明治期の学者たち(福沢諭吉、西 周[あまね]、井上哲次郎など)も、多くの訳語を作り出しました。特に、日本人の訳語は中国語の中に溶け込み、今や「本来の中国語」のような顔をして、日本から逆輸入されたものと意識することなく使用されています。“文化”“文学”“经济”“环境”“社会”“科学”“客观”“抽象”“具体”など、多くの抽象語彙が、日本語起源のものです。